映像制作の現場から|台本至上主義が映像をダメにする

マトモな台本は読んでもわからない

映像制作の設計図、それが台本です。しかし台本を読み解くというのはそう簡単なことではありません。なぜなら映像の台本というものは日本語で書き記されているわけではないからです。
ある事柄はナレーションをベースにして補足的に動画を使って解説していますが、ある部分はナレーションを排除して動画の内容しか想定されていなかったり、またある部分は暗転画面で効果音だけで表現していたり、とにかく日本語として台本を読んで成立することなど、ほとんどないのです。理由は簡単なことで、台本というのは「映像の設計図」ではありますが、それ自身は作品ではないからです。

台本で内容を判断されてしまう危険性

ところが制作の現場においては撮影に入る前に作品の内容やクオリティを判断できるものが、この台本しかありません。私たちはプロですから、台本をざっとみた感じで、ある程度の判断はできます。例えばストーリーの流れやテーマなどわかりやすいところから、それこそ台本には書かれていない完成品の雰囲気や演出的な目標なども読み解くことができます。ところがこれがクライアントさんに出来るかというと、それはちょっと酷ではないかと思うのです。
台本は日本語で書かれているわけではありません。ナレーションですら、動画を補足する意味合いで使っているものが多いので、すべての「伝えるべきこと」を伝えているかというと、そうではありません。ここが大問題の元なのです。

台本(文字)でわかるなら映像はいらない

制作会社とクライアントさんの間で制作の契約が結ばれると、まず台本を作成することになります。そして例外なくこの台本はクライアント企業の稟議にかけられます。ところがここでクライアントさんが台本を読むことができたら良いのですが、そうならないことが多いのは、映像制作の現場にいる人間なら誰もが知っているところです。
そこで、多くの映像制作会社は、台本でわかるように日本語で台本を作ろうとします。具体的には、ナレーション欄を読むだけである程度内容が伝わるように書いてしまうのです。ところがこれは「言葉による表現」にすぎませんから、台本とはいえません。
映像というのは言葉で表現することができない事柄を伝えるためにあるものです。言葉で伝わるなら、それはパンフレットにすれば良いだけです。
台本を日本語で書いてしまえば、伝えるテーマも言葉で伝わるものに限定されてしまいます。台本としては一見成立していますから、読んでわかりますし、読んで「いいねえ、よくまとまっているねえ」と感動することができるかもしれません。しかし、それを映像化すると、とんでもないものが仕上がります。
映像というのは、言葉にできない「行間」のようなものを、直接「目で見せて」伝えるのが仕事です。しかし日本語の作文として成立させている台本モドキには行間を生み出すための余地が残されていないのです。演出の仕事は自由度を失い、淡々と台本のナレーションに合わせた画を撮影し、その通りに編集し、結局そこには「日本語のナレーションと、それを補足する動画」しか存在しなくなります。

映像制作会社は台本をわかってもらう努力を

確かに、日本語として成立している台本と、そうでないものを比較されたら、成立しているものを選ばれてしまいます。しかし台本を読んでわかるなら、映像にする必要性すらないと、勇気をもってクライアントさんに説明するべきです。
今後映像制作会社が行うべきなのは、台本をどう補足してクライアントさんに映像としての魅力を伝えるか?という努力です。画コンテを使うのも一つの方法論ですし、補足説明をもっと充実させるのも手段の一つでしょう。
映像演出的にどのように表現する気でいるのか?それを伝えるための工夫が今こそ求められているのではないでしょうか。それをやらなければ、今後、映像として面白い作品がどんどん減ってしまいます。
クライアントさんにもお願いしたいのは、できることなら台本を説明させていただく機会を与えていただきたいということです。台本を読み解くことは映像を長年やってきた私たちですら神経を使う仕事です。できることなら一緒に台本を読む機会を与えていただけるようにお願いします。
デキサでは、可能な限りクライアントさんにお願いをして、台本作成に積極的にかかわっていただくようにしています。そうすることで、台本というものが持っている特殊性をクライアントさんにも理解していただけますし、読み解くこともできるようになります。
ぜひ、読んでもわからない台本をあきらめないでいただければと思います。そういう台本こそ、完成したら良い作品になることが多いのです。

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