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映像演出はわかりにくい価値観

久しぶりにウェブサイトの更新を行いました。映像制作という一連の仕事にとって大切な「演出」についての記載を充実させたのですが、これ、いわゆる「わかりにくい価値観」すぎて、なかなか一般利用者に伝わりにくいと常々感じていたことでもあります。
テレビ番組のドキュメンタリー番組を見ていると、いわゆる「感動」っていう感情を自覚する瞬間があります。お客さんからもよく「プロジェクトXみたいな番組仕立てにしてほしい」というオーダーを頂戴します。言ってみれば「視聴者の心を動かすくらいの作り」という希望でしょう。
どこの映像制作会社のサイトを見ても、「感動」という言葉は当たり前のように使われていますが、しかし具体的にどのようにその感動を生み出すのかについて、まったく記されていません。それは、具体的には誰もその方法を知らないからだと私は思っています。

ドライすぎる作品は共感を得ない

私も長い間映像演出の仕事に携わってきましたが、視聴者の心にくさびを打ち込むような決定的な映像を構築することができるディレクターは、正直なところ、テレビ業界である程度やっているディレクターか、その直系の弟子だけだと思っています。つまり視聴率や大衆受けを意識しているディレクターだけだということです。
一般的な企業広報映像をやっている映像制作会社さんの場合、どこか映像がドライなんですよね。ベタにナレーションで構成するような作品ですと、必要な情報を整理整頓して伝達することはできても、共感を生むような作品にはなりえません。共感する部分が無いからなんですね。

ドラマの概念が必要

人に共感を得ようとすると、私は映像作品の中に主人公とドラマが必要だろうと思っているのです。ドラマというのは「価値観の対立」です。環境や周囲の意見が壁になって目的を達成できないようなシチュエーションが発生した場合、主人公は一体どうそれを解決するのか?その時の手段だったり思想だったりが、視聴者の価値観と一致した時に、それは共感という形で跳ね返ってくる。
こういう、テレビ番組制作の現場では当たり前に使われている手法を、なぜか企業広報映像のディレクターは使いません。
私が昔作った『がんとの闘い~血管内治療』などは、いわゆる標準治療と言われる治療法と、新しい治療法である血管内治療という二つの存在を対立させ、その二つの価値観の間で悩み、選択を迫られるがん患者の心の動きを追いました。
こうした「誰が」という要素と、「何と何の間でどちらを選択するか」という要素が揃って初めて映像はドラマとしての要素を満たし、共感を得るか得ないかという審判の場所に躍り出ることができるのです。
映像作品を見て感動するかしないかは視聴者の判断ですし、視聴者の価値観によります。しかしこうしたドラマ性無くして、感動や共感の審判を受けることすらできません。

基礎から映像を学ぶ必要性

最近の映像作家は、ある種のデジタル病にかかっているように思われてなりません。AfterEffectsが大流行りで、誰もがそれによる映像加工を売りにしていますね。ビネットライト加工という、ちょっと褪せた感じのフィルム調の画質に変換したり、白を飛ばして彩度を高めたような映像を多用したり。これらはある種の流行りであり、病気です。
1980年代にアナログによるソラリゼーション加工という、今見ると安っぽいエフェクトがはやったことがありました。今見ると本当に安っぽい恥ずかしいレベルの映像を当時は多くの作家が面白がって使っていました。程度の違いはあったとしても、今、多くの映像作家が作っている映像が将来「恥ずかしい」というレベルである可能性は高いと私は思っています。
つまり、技術の進歩と共に変わる要素というのは、どれも本質ではない。いずれ陳腐化するということです。
いつの時代も通用する、陳腐化しない本物の技、それが映像演出術でありディレクションです。世の映像作家はもっとそういう現実に目を向けて本当の映像演出術をゼロから真摯に学ぶべきではないでしょうか。
そんな想いをこめて、映像演出のページを増設しました。ここには私が普段ディレクターとして意識している方程式を書いています。具体的な「感動の方程式」「わかりやすい方程式」を書いている映像制作会社のサイトは皆無に等しいので、よろしかったら読んでみていただけませんか?

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