2019/12/11公開(2023/7/2改定)
サイエンス映像が特別なわけではない
サイエンス系の映像制作というのは、私の会社が多く受注している分野です。医学・薬学系も入れてしまうと、弊社が受注している映像制作案件のほとんどがこの「サイエンス」という分野になると思います。
よく他社のプロデューサーやディレクターと会話している時に「うちは科学系の映像ばっか作っているから」と言うと、「へー、専門的で難しそうな仕事してるねー」と言われるのです。確かに科学とかサイエンス、医学や薬学って言うと、ちょっと難しそうな気がしますよね?でも、それは気のせいですし誤解です。
この誤解は、当の映像制作者たちの中にも広まっていて、長年業界全体で引きずってきた大きな「迷信」だと思うのです。特に科学映像や医学映像の世界ではこの迷信の浸透度が行くところまで行ってしまっていように思います。例えばですが、「医学映像」とか「サイエンス映像」とか、そういう「ジャンル」を枕詞にしたような「●●専門」を謳う会社は山のようにあります。しかし、映像ってのはそもそも「●●専門」と謳うような性質のものではない。
今日はここを正すためのコラムを書いてみたいと思います。ですからわざと「サイエンス/科学映像制作の難しさ」というタイトルにしたのです。こういうタイトルにしておけば同業他社の方々も見るでしょうし、若い映像演出家も見てくれるだろうという期待を込めて、このタイトルにしてみました。
では本題に入ります。
ラーメンの映像をラーメン屋が作るのか?
サイエンスや医学が難しいとしましょう。しかも映像制作者にそっちの分野の専門知識が必要というのなら、
「じゃあラーメンの映像作品はどうなの?難しくないの?」
という疑問がわいてきます。ラーメン屋の取材をするのにラーメン作りの知識が無ければできないなら、ラーメン屋がラーメンの番組を作ればいい。でも、そんなわけないでしょ? ところが医学映像やサイエンス映像の世界では、それがまかり通っている。彼らと話すとわかるのですが、結局は医学知識に長けているだけの「似非医者」だったり、やたら化学や物理に詳しいだけの「似非科学者」なのです。本来大切なのは映像そのもののスキルであるはずが、軸足が余計な専門分野に偏ってしまっている。これはちょうどラーメン作りの専門家がラーメンの映像作品を作るような状況と似ています。
結局彼らは医学部に行ったり、理工学部や理系の大学院を出たりしているのですが、医師として活躍しているわけでも学者や研究者として活躍しているわけでもない。映像というのは副業で生活を維持できるほど儲かる仕事ではありませんから大学院で高い学費を払いながら勉強しつつ仕事をするというのも無理がある。
医者を目指すなら医者を目指してほしい。研究者を目指すなら研究者になるべきだと思う。この映像業界という場所は途中で自分の道を挫折した負け犬のたまり場ではありませんからね、勘違いしないでほしい。中途半端な知識と経験で私たちの畑を荒らされると、古くからここに住み着く我々としては不愉快極まりない。
科学や医学じゃなくても映像作りは大変
ずいぶん前の話になりますが長年ラーメン店の追跡取材をやってきました。例えばテレビ朝日の場合、一時期は朝の『スーパーモーニング』にはじまって、夕方の『スーパーJチャンネル』があって、そして『トゥナイト2』まで、ラーメンを扱うコーナー全部私がディレクターだったという時期があったくらいです。当時フリーランスだった私は各局でラーメン番組をやっていたため、寝る時間を惜しんで取材で追っかけ続けた感じの日々を送っていました。
とはいえラーメン博物館の武内氏も北島氏も亡くなってしまいましたし、私の作る映像を楽しみにしてくれる人たちがこの世からいなくなってしまった。それもあってラーメン業界から距離ができてしまった感じです。
さて、「ラーメンの映像は難しくないのか?」という話に戻しますが、私は理系の人ですから、ラーメンというと「人情噺」で片付けるという風潮がどうも肌に合わないわけです。いつまでたっても「苦労したオジサンが頑張ってお店作って…」という体で、いわゆるラーメンではなく、ラーメンの周辺を追いかける多くのラーメン番組の姿勢や在り方に疑問を持っていました。確かに第一次ラーメンブームの時はこの仕掛けで「ある程度正解」だったと思いますが、芸が無いテレビ業界人たちは、第二次ラーメンブーム以降もメディアがこの方向性でラーメンを仕掛けてしまった。
物事には段階というものがあるので、第二次ブームで第一次と同じことをしていてはダメ。さらに昇華させることを意識しないと面白い展開にならない。
「味」は映像に写らない、だから他で攻める。確かにこれは考え方としては悪くないし、第一次ラーメンブームの火付けの時はそれで良かった。しかし次の段階である第二次ブームでそれをやっては進歩が無い。
飲食であるからには徹底して「味」を描いて勝負するのは当たり前!味はテレビに映りませんから人情噺にもっていくのは、それはそれで方法論としてはアリかもしれませんが、私は個人的な考え方として「ラーメンそのもの」で勝負したかったのです。
直球勝負で味を映すために四苦八苦、悪戦苦闘したのが功を奏したのか、それはそれで一定の評価をいただき、その結果ラーメンの担当ディレクターとして、かなり忙しい日々を送りましたし、今は政治家になっていますが当時局アナだった丸川珠代さんとも『スーパーJチャンネル』において良い意味で緊張感のある取材が行えました。
たまには直球の番組が見たいと思うのです。テレビ屋が「ド真ん中の直球勝負」を避けたり怖がったりしては、よりレベルの高い演出を追求することはできません。ただし、この直球勝負というのは本当に映像屋、テレビマンとしてかなりの経験量が無ければ難しい。多くの引き出しが必要になりますし、毎回その引き出しを増やしていく必要もある。
私が大切にしていたのは「切り口」です。被写体があれば、それをどこから見るか?その側面から見るか?これが映像演出術で言うところの「切り口」。私はこの切り口選びがうまかったのだろうと自覚しています。しかしこれだって、それこそ昔だったので「24時間働けますか」の精神で修行をしていたからこそ持つことができた引き出しです。
地べたに落とさない映像は架け橋にならない
先に述べたような学者崩れの作るものは「正確なだけ」で終わることが多い。だからどこまでいっても一般大衆とアカデミックの世界の架け橋になることができない。つまり「地べた落とし」が出来ていないんです。一般の人にとっても短い尺の中で直感的に把握できるように内容をかみ砕くことを「地べた落とし」というのですが、それがまるで出来ていない。正確なだけの映像を作るのは簡単なんです。資料をそのまま画にしたり、スパコンでの解析結果をそのまま忠実に画にするだけですから、そこに「自分なりの解釈」が介在する余地が無い。
それに難しいものを難しいまま、咀嚼せずに表に出してしまえば、それは受け手がいない映像になってしまいます。だからこうした人たちにテレビ番組のような大衆娯楽は作れない。
昔、やらせ問題で潰された『あるある大事典Ⅱ』という番組がありました。私は「Ⅰ」の頃、よくこのあるあるを演出していたのですが、「どろどろ血液」「さらさら血液」なんて言葉は医学用語ではありませんが、これ、『あるある大事典』が生み出した言葉なんですよ。今ではお医者さんも患者さんへの説明に使っていますよね? これが地べた落としの効果です。
ピラミッドすら隅に追いやる
先日見たエジプトのピラミッドを題材にした番組なんか「かび臭い石のカタマリ垂れ流しても数字取れないだろう」という浅はかな考えが丸見え。若いお姉ちゃんリポーター連れていき、ピラミッドよりお姉ちゃん写ってる尺のほうが長い。そしてやっとピラミッドが写ったと思ったら、画面の片隅に必ずと言って良いほどおねえちゃんが写ってて「うわーーー!大きいーーー!」とか、当たり前のことを叫び続けていて邪魔で仕方ない。いいからピラミッド見せろよと。何のためにエジプトまで行ったんだよ。
多分プロデューサーか総合演出が「ピラミッド撮る時はリポーターとからめておけよ」とか余計なこと言ったんだろうなと、裏事情まで想像ができてしまうわけです。(この番組作った奴は自分のことだとわかるだろ?少しは反省しろ!)
本題を隅に追いやっておねえちゃん写してどうすんだよ!俺にはあれが科学ドキュメンタリーには見えなかったぞ。どこぞのインスタとかわらん。
要するに目の前に被写体があるなら、そこにどうアプローチするか?
そのアプローチ方法を映像屋は「切り口」と言うのですが、切り口を見つける努力が足りないから目の前のピラミッドで数字が取れる確証が持てないのです。そして優秀な作品は例外なくこの切り口が的確であり、かつ独自性がある。そういう番組は後でビデオリサーチの視聴率グラフ見ると数字が伸びている。視聴者は常に賢いものなのです。
映像作品における切り口の重要性
要するに切り口が大切。これは視聴率グラフを見れば一目瞭然です。先に出したピラミッドなどサイエンス番組や歴史番組でこすられすぎて、もう新しいネタはそうそうあるものではない。しかし切り口が変わればまた見え方も変わる。腕のいいディレクターなら、毎日ピラミッドの番組作っても全く違う番組作ると思う。
では的確な切り口とは一体どんなものなのでしょう?これはディレクターによってさまざまな考えがあるので一概には言えませんが、ひとつ私の方法論や考え方をご紹介しましょう。
◆魔法の粉を振りかける
これは山のようにある演出の引き出しの中のひとつに過ぎないので、「これがすべて」と思わないでくださいね。その前提で切り口のひとつの決定方法をご紹介します。
例えば切り口を幅広く揺さぶる方法があります。
簡単に言うと、理系のネタを扱うなら反対の文系の切り口を用いて演出する。また文系のネタを扱うなら反対の理系の切り口を用いて演出するのです。私はこの方法を「魔法の粉」と言っていたのですが、甘いケーキに、アクセントとして少し苦めのチョコレートを振りかける感覚です。これは甘いケーキに苦みのエッセンスを加えることで、甘党以外の方々にも楽しんでいただけるケーキにしようという狙いですね。
理系のネタを文系感覚で切ることで理系のみならず文系の視聴者を獲得するわけです。もちろん反対に文系のネタを理系目線で切っても良いかもしれません。あくまでたとえ話なので「理系」「文系」で話をしましたが、幅広い人たちに興味を持ってもらうためにも、切り口を反対側の立場から描くという方程式は一理あるはずなのです。
もっとわかりやすく言うと、理系のネタを扱う番組なら、監修や出演者となっている科学者が知らないところから攻める。監修で入っている科学者の知識は完璧で、それ自身完結した情報でしょう。しかし、それをそのまま出したら文系人間にはまったく興味の無いコンテンツになってしまうのです。だから真逆の発想で文系の知識と理系の知識を結びつけるなど、とにかく切り口を広い幅で揺さぶるわけです。
理系の知識をどれだけキレイに並べて整理整頓しても、それだけでは多くの人の支持は得られません。それより、自分が先生の知識に対して何をプラスアルファできるかを考える。先生に無い切り口をディレクターが提案する。これが映像のプロの思考というものなのです。
この方法は何もサイエンス映像に限らず広く用いられている手法です。
私がこれまでに演出してきた番組で実例を挙げると、ラーメンを理系目線で切るというコンセプトは多くの視聴者の支持が得られた手法です。「食は化学だ!」と最初に宣言してしまい、その目線で全体を切る。せいぜい15分のコーナーなら、その切り口一つでやれてしまう。
また「占い」がテーマの番組なら、「占いを科学する!」と謳ってしまう。こうすることで占いというミステリアスな世界に興味を持つ層と、理系のロジカルな層の両方をからめとる狙いがあるわけです。
もちろんこれはテレビ番組のような大衆娯楽の世界の話ですから、専門色の強いコンテンツにまったく同じ方法を用いるわけにはいきません。しかし、要素としてプラスアルファをすることは十分に効果的ですし、可能性として否定すべきではありません。
これを本題のサイエンス/科学映像に置き換えてみましょう。ディレクターは一体どう演出すればよいのでしょうか?
◆サイエンスのワクに収まらない切り口も選択肢に残す
例えば宇宙物理学をネタにした映像作品を宇宙物理学を専攻したディレクターが作ったとしましょう。果たしてどのような切り口になるでしょうか?私のようなひねくれ者なら、宇宙物理を専攻していようがいまいが、「魔法の粉」を振りかけるでしょうが、多くの場合、宇宙物理学を知る人の感覚で宇宙物理学を切るはずです。ところがこれは、宇宙物理学のテリトリーから一歩も出ていませんので、興味の無い層は「あー、宇宙物理の動画なのね?じゃあいらない」という感情になってしまう危険性があります。
そこを少しひねって、例えばですが(こんなもんは無理だろうけど今は考え付かないからヒントにしてください)「あなたの晩ゴハンを宇宙物理学でおいしくする」のような切り口にするわけです。これが専門コンテンツにはないメジャーメディアの思考パターンです。
ピラミッドを扱うならキレイどころのお姉ちゃんは不要です。気の利いた切り口を一つ二つ用意して、ちゃんとピラミッドを見せましょうよ。それで確実に二時間スペシャルくらいは持つはずですよ。
映像作家は映像に軸足を置け
要するに切り口をどうするか?映像作家というのは映像作家としての本分をわきまえ、専門家が発する専門的な情報をいかに料理するかを突き詰めて考えることが第一歩です。というより、それができなければ映像作家としてプロフェッショナルの業界では全く使いものになりません。
題材は何でも扱う。例えばケミカルの分野の映像を制作するからといって、ケミカルの学位を持っている必要はありません。もちろん番組を作れる程度には知る必要はあります。しかし専門家が出演もしくは監修しているなら、むしろ専門的情報は専門家から上手に引き出す方向で、出てきた情報をどういう切り口にすれば一般視聴者が理解を示してくれるか?その一点にまず集中して切り口の候補をいくつか用意する。そして専門家の意見を聞きながら、その切り口の中で最適なものを残し、その切り口から攻める。こうした方法論や感覚、そして思考パターンを磨き上げることは映像作家という職業に就く者にとってはとても大切なことなのです。
◆専門特化する必要は無い
何かの分野に専門特化する必要もありません。サイエンスだけとかメディカルだけなど、一つの分野に「専門特化」と言えば聞こえはいいですが、映像作家としての基本を磨かずサイエンスの知識ばかり持っているのは偏りや歪みの遠因となる危険性があります。
私の友人でも、サイエンスメディアの専門ディレクターがいます。しかし彼の場合はたまたまそっちのほうが向いていたというだけのこと。基本をしっかり20年学び、それから軸足をたまたまサイエンスに移しただけです。こういうディレクターなら映像作家としての広い視野に立ち、専門分野のコンテンツにふさわしい切り口を探すはずです。
しかし映像作家としての基本を磨かず修行が足りないまま専門特化してしまうと、概してメジャーメディアでは通用しない、演出の切り口に光が無い作品を作ってしまう。専門家相手の専門家同士で公開するコンテンツは作れても、一般の方々に広く見てもらえる映像作品にはなりにくい事情がこういうところにあるのです。
サイエンス作品を作るディレクターに科学知識があることが一番重要と言うなら、サイエンス番組は科学者が作り、ラーメン番組はラーメン屋が作るほうが良い番組が出来上がるという理屈になる。しかしそれは違うと思います。ディレクターがどれだけサイエンスやラーメン作りを学んでも結局は「似非サイエンティスト」「似非ラーメン屋」にしかなれません。
◆映像屋は映像屋だからこそ大切にされる
映像作家は映像作家であるべきです。当たり前すぎて、自分でも何を言っているのかと言いたくなるのですが、映像作家は映像作家として、そしてディレクターとして、これ以上ないという位に映像演出を学び、磨き上げる。だからこそ博士号を持つような様々な分野の専門家にも求められ、必要とされ、対等に議論を尽くすことができるのです。
例えば人生をかけて研究を続けてきたような宇宙物理学の権威の前で、映像ディレクターがにわか程度に多少宇宙物理を知っているからといって、それは先生の側から見たら落書き程度の価値もありません。それよりは完璧に映像を突き詰め、その特性を知り尽くし、映像のプロとしての知識と経験で先生方に「おお!その切り口すごいね!考え付かなかったよ」と新たな刺激を与えるほうが、違う分野の専門家同士の信頼関係が構築でき、結果として良い映像作品に結びつくと思うのです。本来、映像作家というのはそういうものではありませんか?映像屋が何たるかを忘れないようにしたいものです。
映像は何のためにあるのか?
映像は知らない人に知ってほしい情報や知るべき情報を効果的に伝えるための手段です。サイエンスの専門家がサイエンスの専門家に情報伝達する映像コンテンツも価値がありますが、今、求められ必要とされているのは、実は専門家から社会一般に向けた情報公開手段であるはずなのです。その際に重要なのが、先ほどから例に出している「切り口」「魔法の粉」をはじめとした「伝える技術」です。
サイエンスの専門家から出た新しい情報を、映像の基本が薄い似非サイエンティストが映像化しても、それはサイエンスの範囲を一歩も出ません。
サイエンスの専門家の側も、新たな情報を広めようとして映像を作る決心をしているはずですが、映像制作会社選びや映像作家選びの段階で、どうしても「サイエンス映像制作」「科学映像専門制作会社」などと検索してしまいます。そこにもしメジャーメディアで「伝える技術」を磨きこんだディレクターがいれば幸運ですが、もしいなかったら、かみ砕きの無い、恐ろしくわかりづらいチンプンカンプンな映像が出来上がってしまいます。しかも悪いことに、その動画をチェックするのが科学者だったりしますので、科学者にはわかりやすかったりするのです。映像制作を依頼した科学者も「これはよく出来ている!絶対みんな喜んで観てくれるはず」と意気込んで公開するのですが、結果は惨憺たるもの。この業界ではよく起きている頻発事故事例です。
◆伝える技術の専門家に任せましょう
サイエンスの専門家の方々にお願いなのですが、もし一般の方々にもっとサイエンスを身近に感じてもらいたいというのなら、しっかりと映像のセオリーやテクニックを持っている映像演出の専門家に任せたほうが良いと思います。映像作家に科学の知識を求めても無駄です。あなたには決してかないません。それよりあなたが決して手に入れることのないスキルを身に着けて、あなたとは全く違う視点(切り口)で情報を整理整頓し、一般の視聴者の方々の感覚を骨の髄まで理解している「伝える技術の専門家」に依頼すべきです。
特別なジャンルなど無い
最後になりますが、冒頭で触れたように同業他社の映像制作者から「サイエンスとかメディカルとか、難しそうな映像やってるね」とよく言われるのですが、私はそう言われると、「いや、たまたまそういうジャンルの映像の仕事が多いだけですよ、別に専門にやってるわけではないし。それに題材をリサーチして、専門家から情報を引き出し、最適な切り口から整理整頓する技術にジャンルは関係ありませんよ。お宅の会社でもやってみたらいいじゃないですか?」と返事するようにしています。実際、マスメディアのコンテンツを普通に作っているベテランスタッフなら高確率で参入は可能なはずです。
映像作家にとって特別なジャンルなどあってはならないのです。映像作家としての軸足をブラさず伝える技術さえ磨いていれば、特別なジャンルなど存在しないのです。これが「サイエンス映像=特別」という意識を「迷信」と表現した理由です。
職業というのはどの道も、究めるとなったら大変な努力があるはずです。そして門外漢からしたら、とても理解できないような難しい難問を解決し、成功を勝ち取っているはずです。それは何もサイエンスやメディカルに限ったことではありません。映像作家はどのジャンルの映像を作る上でも常にリサーチを怠らず、いくつもの切り口を想定し、そして取捨選択して最適な切り口を残し、その切り口から広く一般の方々に伝わるように「伝える技術」を駆使した、視聴者に寄り添う作品を生み出すべきです。そしてこれからの時代、「専門家to専門家」の映像ではなく「専門家to社会」の映像の需要はますます拡大するはずです。そういう時代にこそ、「伝える技術」が求められるはずですし、映像作家としての軸足をブラさず基本に忠実に邁進していけば、活躍の場が必ず広がるはずです。