どこまで行っても請負仕事、それがプロ
私らプロの映像屋ってのは、どこまで行っても「請負仕事」の世界ですよ。自分のやりたいことなんて、できることはわずか。お客様からのご依頼があり、そのご依頼に従って映像を作る。なぜかって?そりゃ仕事だからですよ。お客様は大事なお金を払ってくれるんだから、ご期待に応えられるように頑張るのは当たり前。
さて、上記が今の私の個人的な信念。考え方です。でもこれを若いクリエイターに話すと「そんなことで恥ずかしくないのですか?」みたいなことを言われることがあります。まあ、お若いのだから、熱いのは大変結構。でもね、私は私なりにこの世界で長くやっているから、私なりの信念がある。信念というのは、プロにとっては大切なものです。そしてなぜこの仕事を続けているのか?という職人にとっての本質のベースとなるものです。
熱さだけなら負けないよ
若い時は私はそりゃもう、激しい姿勢を持つクリエイターでした。お客さんに食って掛かることなんか日常茶飯事。でも、それがクリエイターとして大切なことだと思っていたし、自分の考え方を改めたことなど一回も無かった。自分こそ正義。自分が正しい。間違っているとしたら他人。
たった1カットの撮影のために1日費やしてテイクを100近く撮るなんてこともあった。100撮ってもまだ納得できない。思った通りの画にならない。納得できないものは納得できないのだから、また撮影を試みる。
こんなことを普通にやっていたのだから、赤字なんか当たり前。予算管理しているプロデューサーはただただ私の暴走を止めようと説得を試みて、しまいにはブチ切れる。
これが私のそもそものスタート。だから熱く自分の考えを曲げない人の考えもよくわかる。でもね、私は考え方を改めました。本当の「あるべき姿」に気が付いたからです。
熱い人ってのは人の話を聞かないから、私がなぜ今の姿勢に行き着いたのか?それをここに書いておきます。暇があったら読んでみるといいと思う。
あるカメラマンの仕事
私の仕事仲間で、あるカメラマンがいます。仕事は極めてビジネスライク。ディレクターである私に言われたことをキッチリやる。本人は仕事としてカメラを回しているだけ。ところが私から見ると彼の仕事は芸術です。
一瞬の被写体の表情を逃さず撮影し、その被写体の持つ本質を浮き彫りにしていると同時に、撮影者である彼の思想や考え方までにじみ出ている。少なくとも、撮影者であるカメラマンが一体何を重要視し、何に興味を持ち、どのような思想を持つのかを考察するに十分なヒントが、その動画素材の中に含まれている。
たぶん、これは撮影している本人も意識していないのです。本人はただ、言われて指示されて被写体を追跡撮影しているだけ。極めて真面目に普通に撮影している。奇をてらうでもなく、ノーマルに、どうにでも編集できるように彼は撮影を黙々と続けている。でも、撮影した動画素材を観ると明らかに撮影者本人の人となりが出ている。にじみ出ているんです。そしてその素材を編集の時に見る私はいろいろ考えさせられる。
編集するディレクターである私からすると、こういう素材はおいしい。力があるんです。だから彼のような真のアーティスト/芸術家は私の仕事人生にとっての本当の意味での財産です。
ある書家の生き様
もっとわかりやすい例を出しましょうかね。それは私の父です。2016年の春に亡くなったのですが、父は書家でした。師範としてやっていた人なのですが、とにかく寡黙な人で多くを語らず、生真面目で正直者です。ギャグはオヤジギャグだし、滑る事のほうが多かったような人で、子供の私でも激しい部分など見たことがない。自慢しているところも見たことが無いし、奥ゆかしく、飾る事が無い。虚勢も無ければ、ただただ、父そのものをいつも表に出している。そんな人です。
そんな父の書は、寡黙で落ち着いた作風です。生真面目に美しい字を書く。しかし若かった私にはそんな父の作品の価値がわからなかったのです。当時の私は若さゆえに情念の表出を追い求め、自己の映像作品でそれを追及していたからこそ、父の作品の存在感を細く感じてしまったのかもしれません。
しかし今はなんとなくわかりますよ。父の書はある意味で仏の境地です。一切の邪念が消え失せ、静かにたたずむような誠実さと美しさがあるのです。どんな喧噪の中にあっても、静まり返るような、そんな感覚でしょうか。
つまるところ、父の作品からは父が理想とするような人生の在りようが感じられるのです。静かで端正で、邪念が無く誠実。そしてそれを書いた父の人となりが明確に表れている。
多分父の理想とする人生の在りようは、そうしたものだったのだろうと、今になって考えることがあります。ある意味、自分の人生修行のゴール地点を、自らの書で表現し、再確認する。そんな書とのつながりを父は書道という道を通じて試みていたのかもしれません。
内なる宇宙を探索しているだけ
しかしこういう父も、先にご紹介したカメラマンの例と同じで、「何かを表現してやろう」「世界をひっくり返してやるぞ」といった気負いは全くないのです。普通に筆を振るうことが好きなだけ。社会を変えようとか、そんな大それたことは考えていない。まして自分の作品を「芸術」などと考えていた節はこれっぽっちも無かった。
彼の作品はいつでも、自分の「心」という宇宙を探索しているだけです。そして書を通じて体験したことが、また本人の心に帰って行く。そこに邪念や情念は一切ありません。
こういう作品や人に触れるうちに、自分が一体どこを目指すべきなのだろう?そう自問することが多くなりました。
「アート・芸術」とは何か?
これまでご紹介してきた人や作品に共通するもの、それは「モノを作る」ということと、そこに「邪念」が無いことです。自分のすべきことをただ行って、その結果としてモノを生み出している。生真面目にただ、作るべきモノを作っている。
細かいニュアンスの違いはあるのですが、近い言葉で言うと、これらモノを作り出す作業は「職人技」であることです。しかし、職人技を突き詰め、到達する先に、自然と作品に表出する何かがある。
その何かとは「作者の精神性」と言えるかもしれません。しかしその精神性には邪念が無く、まっすぐで美しい。
本人たちは決して自分の作品を「芸術作品」とは言っていません。父もカメラマンも、芸術などという言葉を口にしているのを聞いたことがありませんので。また「世の中を変えてやるぜ!」といったおこがましさもありません。何かの思想を「理解させよう」などという押しつけがましい意図もありません。しかし、その作品には様々なものが表出し、観る者を圧倒する。
たぶんこれらの作品には作者の心が乗り移っており、その心と、観る者の心が共鳴を起こすのでしょう。
芸術とは何か?そんな大それた問に対して答えを出すだけの力も権利も私にはありません。しかし、これまで私が述べてきた事実は、多くの方々にとってヒントとなるのではないか?そう願ってここに記しています。というより、私自身が知りたいからこそ、私自身の考え方をまとめているのかもしれません。
ここまで3000文字近く書いてきて、結論を出さないとは何事かと怒られそうですが、皆様にとって無駄な時間にならないことを祈っています。好きなことを書いてしまいました。長文失礼いたしました。
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