映像制作の現場からタイトル

ご注意
当ページは「映像制作の現場から」の他のページとは違い、記名記事として筆者が強く内容に責任を負っています。無断引用はご遠慮ください。また筆者の意見の引用を希望の場合は弊社メールフォームから筆者宛てに引用希望の旨をお伝えいただき、引用元として当サイトをご紹介いただければと思います。
(筆者:デキサホールディングス(株)代表取締役/映像演出家 奥山正次)

映像とは何か?動画とは何か?を今こそ考える

映像といえば、かつては映画かテレビなどプロの専有物でしたが、今やウェブで公開されるものに代表されるように一般の方々が作る映像が爆発的に増え、存在自体がかなり地べたに降りてきた感があります。
こういう時代ですから、「映像とは何か」という定義をしっかりとプロの観点から紐解くことは意義のあることだと思いますし、映像の制作依頼を検討中の方々にも有益な情報であろうと思います。映像の専門家としての立場から書きますから、少々難解かつ長くなりますが、読み込めば十分理解可能な内容のはずですので、時間のある時にご一読いただければと思います。

誰も知らない「動画の定義」「映像の定義」

動画と映像、似て非なるものですが、この言葉は混同されて使用されてきた経緯があり、明確な定義づけを求めてもあまり良い解説は少なくともウェブ上には存在しません。
例えばウィキペディアの解説を見ると、以下のように書かれています。

動画~
動画とは、動く画像のことで、映像と呼称されることも多い。アニメーションの日本語訳でもある。

映像~
映画、ビデオ映画、テレビ番組などの業界や、その作品(コンテンツ)自体などを全般的に映像と呼ぶ

わかったようなわからないような解説です。また多くの辞書も納得がいく結論を書けていません。言葉というのは言語の発生学的な立ち位置から意味を書いても本質は見えてきません。使われるうちに定義がより明確になり、こなれて洗練されていくことも多いからです。
加えて映像制作の分野を学術的に研究している方はあまり多くありません。映画を文化や歴史の観点から研究している方もいますし、経済学的な観点からテレビなどマスメディアについて研究している方もおられます。しかし、映像制作の実践そのものを学術的に研究している学識経験者は少ないのです。そのためSEOなど他分野の方々の解説(特に動画マーケティングの専門家なる方の解説など)が幅を利かせています。
つまり本当のところ、動画と映像の差異を理解して、人に説明できる人は少ないのだろうと思われるのです。
こうした流れは、映像制作の専門家の怠慢が生んだ結果でしょう。本来なら私たち映像制作者および映像演出を日々研究している者がアカデミックな立場で言葉(用語)の定義から行うべきだったのに、日々の仕事に明け暮れてそうした学術的探究、地ならしをしないで来てしまった。加えてこれだけ動画というコンテンツが地べたに降りた時代なのに情報や研究成果の公開をしてこなかったことが大きな問題です。これは大いに反省しなければなりません。

では本題に入りたいと思います。

前提条件からご説明します

まず、前提条件として、これから私がここにご紹介する「動画」と「映像」の定義はあくまで1970年代以降の映像業界における一般的な認識を基に解説するということです。
後半で触れますが、動画や映像という語彙の漢字の意味をひも解くと、実は、これからご紹介するプロの映像業界において一般的とされている言葉の定義とは少し違う意味が生じると私個人は考えているのです。とはいえ、言葉というのは時代や慣例に従って常に意味を変化させていくものですので、絶対的な答えは存在しないであろうということです。ですので、ここにご紹介する語彙の意味については、概ね1970年代より後に現場において使われ、文献や教科書において一般的であろうという解釈といたします。

動画は「動く画」という意味

動画は読んで字のごとく「動く画」と理解して結構です。
漢字の言葉の場合は文字そのものの本来持つ意味からあまり大きく逸脱することは控えるべきでしょう。

また元々は一説に語られるように、動画という言葉が「アニメーション(animation)」というかなり狭い特定の表現手法を前提にその対訳として生まれた単語だとしても、言葉の意味は時代や利便性の要求によって解釈は変化するものですので、一般的には上記のような意味で動画という言葉を解釈するのが妥当でしょう。

その考え方からすると、カメラで撮影したばかりの未編集の素材もそれ自身が意味をなしていなくても動画と言えるのです。例えとしてわかりやすくフィルムの映画カメラを前提にして解説しますが、無意識・無作為に機械としてのカメラが回ってしまい、それによってフィルム上に記録されてしまった連続した一連の投影も、「動く画」という意味において動画です。
繰り返しになりますが、動画とは「動く画」という読んで字のごとくの意味と理解していただいて間違いではありません。

では、例えば三脚に立てた映画カメラで白壁をずっと撮影したとしたら?これは動画なのでしょうか?何も動くものが写っていないため、動いている画にはなっていないのです。
ここまで来ると、もう動画かどうかを論じる意味すらないように思いますが、例え何の動きが画面上なかったとしても、フィルムは毎秒24コマというスピードで送られ続け、露光を繰り返しているのです。つまりそのフレーム内に動く何かの物体が通り過ぎればその動きをフィルムに焼き付けることになります。動くものが写っていないがそれはあくまで結果論であって、動いているものがもしそこにあれば動く画になる。つまり「潜在的に動画」ということができます。
ニュアンスとしてはこうした場合(あまりに極論ですが)も高速でフィルムが送られ、連続した露光をしているのなら本質として動画と考えて良いかと思います。とはいえ、こういったフィルムは捨てられるだけの運命ですので、動画と呼ばれることは現場レベルではまずありませんが。

映像の本質は「作者の意思の発現」

では映像はというと「作者の意図を反映するために何らかの操作を加えた動画」と考えるとシックリくるのではないでしょうか。つまり作者の意図の発現こそ映像の映像たる所以という考え方です。

映像もまた、動いている画である以上、それは動画でもあります。つまり映像も動画に含まれているのですが、動画に作者が意図を反映させるための操作を加えたものが映像だという考え方です。
その一つの根拠として、「映像演出論」という言葉は存在しますが、「動画演出論」という言葉が存在しないという事実があります。この「演出」というのは高度に意図を反映するための操作手法のことですが(※1)、映像演出論という言葉には、「映像」とは「演出」つまり「意図を反映するための操作」を要するという前提が内包されていると言えるでしょう。
ですので、先ほどの白壁(が写ってしまった)映画フィルムの例は映像とは言えないことになります。

私たち映像制作者は若い時に仕事の中で、「カメラが回っていればテープに記録されたものすべてが動画、それを編集したものが映像」と習ったものです。しかしこれを定義とするには正確性に欠けるかと思います。なぜなら編集という工程を経なくても1カットの中で作家としての意図を反映することは可能だからです。先輩方は「意図を反映するための操作」の一例としてわかりやすく「編集」という工程を例にして説明してくれたのでしょう。

ちなみに編集を経なくても映像は作れるという根拠は、編集という工程が持つ意味を考えればわかることです。編集という工程は、それ単体では意味が希薄な動画素材を時系列的につなぎ合わせることによって作者の意図に沿った意味を生み出す作業です(※2)。つまり編集の目的とはそもそも「意図を反映すること」にあるのですから、1カットの中で意図さえ反映されていれば、それは映像と言うことができるという論法です。(カットを切らずに長回しでワンシーンの撮影に挑戦するなどが好例。)

では、撮影時にまったく意図せず偶然価値ある事象を撮影できてしまったなどの場合はどうでしょう。典型的な事例が、YouTubeなどで配信されているドライブレコーダー撮影による交通事故の動画です。この動画は偶然撮影されてしまったものであり、撮影時は全く作者の意図の介入はありません。こうした動画も映像作品と言うことができるのでしょうか?
この場合も私は映像としての意図の発現を否定することはできないと思います。なぜなら、この動画を公開したということは、どこかに(この場合は交通事故の瞬間)価値があると権利者が感じ、編集ソフトを使って事故と関係ないところをカットして、見てほしいと思う瞬間を選んで残し、YouTubeにアップロードしたという操作が加わっているからです。その意味において、撮影時はまったく意図せず偶然撮影されてしまった素材だったとしても、その動画素材に何らかの価値を見出し、その価値を引き立つように最小限度の編集を加え、公開するという操作があるからです。

著作物にあたるかあたらないか

ここからは違う角度から見てみることにしましょう。
いわゆる映画やテレビ番組など、私たちが言うところの「完パケ」になっている映像作品は法的に著作物として扱われます。ここで言う「完パケ」は、作者の意思の発現がある以上、これまでご説明してきた論理からすると、明らかに「映像」としての作品であると言えるでしょう。そこで、こうした完パケとしての映像作品の本質を法律はどう定義付けてきたのか?その解釈と歴史を振り返りながら映像の本質を紐解いてみたいと思います。

完パケとなっている映像作品は法的に著作物として扱われます。そして著作権法における著作物とは「思想または感情を表現したもの」(2条1項1号)となっています。では、この条項で言う思想または感情の表現というのはどういう表現のことを指しているのでしょうか。
思想・感情と言うのであれば、例えば泣いたり笑ったりしている人を撮影した動画なら著作物としての映像たりうるのでしょうか?反対に思想・感情の無い森の中を撮影した動画は?
今の著作権法で言うと、どちらも著作物になりうるという結論です。というのも例え感情が無い被写体を撮影したとしても、その撮影のしかたそのものに作家の思想や感情が注入されているのであれば、それは著作物であるというのが、著作権法における著作物たる映像の本質です。これはつまり先にご紹介した「意図を反映すること」につながる考え方と言えます。

上記の考え方からすると、映像作品は明らかに「著作物」と言えるという結論となります。では、動画は著作物なのでしょうか?

動画の場合、例えば未編集のドライブレコーダーの動画(カメラの中のメモリに蓄積するだけの状態)に明らかな思想または感情の表現はありません。同じように未編集の監視カメラの動画もまた同様に明らかな思想または感情の表現はありません。これらをそのまま「著作物だ」と主張したところで法律はそれを認める可能性は低いと思います。
しかし、ドライブレコーダーで高速道路の風景を見せたいという作者の意図があったとしたら?また監視カメラの目線を使って誰もいない通路を撮影することが、作者の意図であったとしたら?これは何かの思想・感情の表現そのものですので、著作物として認められてしかるべきです。
また、例えばドライブレコーダーで偶然にも事故のシーンが撮影できてしまったとして、その動画に所有者が価値を感じて保存した場合も、驚きなどの感情という動機があって保存したという操作が加わっているわけですので、厳密な意味では思想または感情の発現が認められ、それゆえに著作物たりえるのではないかと思われます。
つまり、この事例が示唆するのは、客観的な形として動画の形態をとっていたとしても、意図なくただ記録されてしまったものは著作物とは言えませんが、意図があり、その意図が何らかの方法で反映されているなら、それは著作物と言えるということです。もちろんもし裁判などの場で争うことがあるとすれば、その時には撮影意図の存在を立証する必要がありますが、少なくともこうした事例の場合、その動画が著作物なのかそうでないのかは、撮影者のみぞ知るという状況になるかと思います。

では転じて次の命題は、上記のドライブレコーダーと監視カメラの事例は映像として認められるか?ということになりますが、意図をもって撮影を行ったとしたら、これらの動画を公開する前に、おのずと編集を行い不要な部分をカットし、公表するに足る形に仕立てるはずです。その際、何らかの意図を反映しているはずですから、厳密な意味ではこれらは映像と定義しても矛盾はないのではと思います。

ゲームは映像と言えるのか?

映像の定義はとても広く、実は一般的には動画として扱われているようなものでも、作者の意図があるかないかによって、映像にもなりうるということを見てきました。
では、その映像の定義の広さを実感するために、比較的新しい文化であるゲームは映像たりうるかを考えてみましょう。

これまで解説してきた通りの論法から見れば、ゲームは明らかに映像作品と考えて良いでしょう。動く画である上、その動く画に作者の意図を反映するための操作が加えられているからです。先に解説した通り、その操作の手段は何も編集に限ったことではありません。動く画にアルゴリズムという手段で操作を加えても、それが作者の意図に基づくものであるなら、それは映像としての要件を満たしています。

漢字の意味から考えると逆の解釈が成立する

以上、動画と映像の違いを解説してきましたが、いかがでしょう。映像は動画の一種ですが、作者の何らかの意図があり操作を加えられた場合に限り、映像として扱われる価値が出てくると考えれば、この二つの言葉の違いを理解しやすいのではないでしょうか。
これはその動画が著作権法における「著作物」としての価値を持つか持たないか?という基準でもかなり近い分類を行うことができるのではないかと推論できます。

とはいえ、実は漢字そのままの意味を精査すると「動画」と「映像」は、先にご紹介した映像業界における意味付けとは、本来逆のニュアンスを持っています。
これまで私が解釈してきた「映像」と「動画」の区別は1970年代以降の映像業界における一般的な用法から解釈してきたものです。テレビ関係や映画関係の技術専門書や映像演出などの教科書をひも解くと、二つの用語の扱い方から、およそ1970年以降に限った時代において、こうした解釈が成り立つという論を展開してきたわけです。ですので、現在もご活躍の、いわゆるベテランの映像演出家の方々にとって、もっとも馴染みのある解釈を展開してきたとも言えます。
ところが、本来の漢字が持つ意味で言えば「動画」は「動く画」であり、「映像」は「映し出された像」であると解釈することも可能です。

「映像」を意味する言葉は現在の英語ではVIDEOであり、もっと元をたどり、19世紀においてはIMAGEを「影像」または「映像」と対訳していたようです。VIDEOもIMAGEも「像」という意味合いが含まれていますので、これはある種正しい直訳であろうと思います。
また、MOTIONPICTURE、MOVIEやANIMATIONという言葉の日本語訳としては「動画」のほうが直訳としては正しい語彙となるはずです。
とすれば「像」は何も「画」である必要すらないため、本来は「像」を「映し出す」(つまり「映像」)のほうが「動画」より少し広い意味を持つ言葉なのではないか?という疑問があります。

動画/映像の意味定義の時系列

ではなぜ(私の知る1970年代以降の)日本の映像業界における言葉の使い分けとして「映像」のほうが「動画」より狭い意味を持つに至ったのかを考える必要があります。そこで僭越ながら、少し私の持論をご紹介させていただきたいと思います。これは言葉の起源を探るにも等しい行為であり、手元資料の範疇から離れるためあくまで想像の域を出ませんし、今後もっと多くの過去の文献をひも解き、時系列に並べて研究を続ける必要があると思いますが、私が軽く歴史的事実を並べてみただけでも、現在の「映像」と「動画」の使い分けには、テレビ放送の歴史的経緯やアニメ業界の黎明期の出来事との深い関わりが見て取れます。

言葉の発生の流れ

・1870年代~物理用語として存在した「映像」

・1910年代~「映像」と「影像」の混在

・1922年~高柳健次郎のテレビジョン(無線遠視法)研究発表において「像」の字が使われる

・1948年~動画という単語がセルアニメを指す語彙として定着

・1950年~放送法で「影像」という語彙を用いてテレビジョン放送を定義

・映像の「映」の字には能動的な意味合いがあったことが「演出」という能動的要素と共鳴

・テレビ放送における生放送文化の中で「映像=演出が反映された完パケ」という概念が定着

・1970年代~和製英語「アニメーション」が一般化し「動画」という語彙がセルアニメから乖離

映像という言葉とテレビとの関わり

そもそも「映像」という言葉は、1870年代に物理書の中で誕生した光学系の設計者などが使う専門用語であり、英語で言うIMAGEの日本語訳として生まれたというのが定説となっているようです。
さらに大正時代の1910年代になると、この映像に加えて「影像」という語彙が登場し、両者が混在して使われるようになったようです。ここで重要なことは映像も影像も、「像」という共通の漢字が使われていることです。

そして1922年、当時テレビジョン研究を行っていた高柳健次郎博士が無線遠視法の記事の中においても「像」の字を使っています。

無線遠視法とは、或場所に於て時々刻々に変る景色を障壁に依て見る事を得ない遠方 の地点に於て、之と同期的にかはるとしてあらはし観察し得る方法を云ふ。
(高柳健次郎「ラデイオ・テレビジヨン 無線遠視法(一)」『電気之友』第596号,1924(大正13)年10月1日)

つまり、高柳博士のこの一文は、「像」という言葉をテレビジョン研究の中において積極的に好んで用いていたという事実を表すことの証明ともとれます。例えば「撮像素子」「撮像管」「受像機」など、テレビジョンの技術における「像」の字の使用例は枚挙に暇がありません。つまり当時から「映像」や「影像」という言葉を意識的・無意識的に限らず、テレビジョン黎明期においては使っていたのではないかと推察するに足るだけの根拠となるのではと私は考えています。
その一つの根拠として1950年に無線電信法に替わり公布された電波三法においては「影像」という語彙を使ってテレビジョン放送を以下のように定義しています。

静止し、又は移動する事物の瞬間的影像及びこれに伴う音声その他の音響を送る放送(文字、図形その他の影像(音声その他の音響を伴うものを含む。)又は信号を併せ送るものを含む。)

この法律が「映像」「影像」という言葉とテレビジョン放送を直結させ固定化させた働きをしているのではと思います。とはいえ現在この「影像」の字はなかなか見かけません。一体なぜ「映像」に一本化されてしまったのでしょう。

映像と影像の違いは「映」と「影」の違いです。音は同じですが、意味がまるで違います。「映」は「映し出す」「映える」という能動的な意味を持っています。しかし「影」はいわゆる影ですので、受動的な意味合いを持っています。例えば「映写」は機械が光を出して能動的にスクリーンに像を映し出す能動的な現象ですが、「撮影」はカメラが光を受ける受動的な現象を指します。こうした漢字の意味の違い、つまり「縁起」や「語感」の違いが、この両者の運命の明暗を分けたのではと考えています。

「アニメ=動画」で「テレビ=映像」が明確化

一方、電波三法の公布の少し前の1948年、現東映アニメーションの旧社名である「日本動画」という会社名が使われ、ANIMATIONの対訳として「動画」という語彙が本来の「動く画」という意味より狭い(今で言うところの)「セルアニメ」という定義で使われていた史実があります。これは戦前に今でいうセルアニメを意味していた「線画」などという言葉よりセルアニメを表す言葉として適切であったのでしょうが、とにもかくにも「動画」という語彙はセルアニメの世界の言葉として定着するに至りました。

テレビも「動く画」に変わりはないのですが、すでに「動画」という言葉は使われてしまっています。そこでテレビは一層「映像」という言葉を前面に打ち出します。

生放送文化が「映像=演出済」の概念を生んだ?

当時のテレビは「生放送」が基本です。録画機は存在はしていましたが、まだまだ画質がひどすぎる上、編集をすると高価な2インチテープに直接ハサミを入れることになるため、コストの点からも実用化するには難しい時代だったと聞いています。ですから今考えると乱暴な話なのですが、簡単なドラマであればスタジオ撮りの生放送ということも少なくありませんでした。すると生で流れている映像は演出が加わり作者の意図も反映され、すべての処理が終わりそのまま放送できる「完成パッケージ(完パケ)」そのものですので、「生放送で流れる信号」=「映像」=「完パケ」という概念や言葉のニュアンスが発生することになったのではないかという仮説が成り立ちます。
完パケというのは編集も終わり、MA(音声制作)も終わった、文字通り「完成パッケージ」ですから、ここには演出(作者の意図を発現させる操作)も反映されており、先に「1970年代以降の用法」としてご紹介した「映像」の定義に完全に重なります。

和製英語の一般化で動画とアニメが乖離

では、テレビ以前にセルアニメを意味していた「動画」がなぜ、編集前の「素材」を含む未編集かつ意図を含まない動く画に使われるようになったのか?この経緯については正直現段階では不明ですが、「アニメーション」「アニメ」という和製英語が一般化したことにより、ある種の「揺り戻り現象」のようなものが起き、漢字の意味そのままの「動く画」という意味に言葉自身が自分の居場所を見出すがごとく収まってしまったのではないかと私は仮説を立てて推察しています。
この経緯についてはさらに調査研究が必要でしょうし、この経緯をご存じの方がもしいらっしゃるようでしたら、ぜひ教えを乞いたい部分です。

私的見解としてまとめ

私の個人的見解としては、「アニメーション」という言葉がすでに和製英語として定着している今、「動画」という言葉をアニメ業界の用語として縛る必然性も薄いと考えています。となれば「動く画」としての「動画」という言葉はカメラ撮影による画にも使われてしかるべきですし、「映像」という、いわゆる「完パケ」を意味する言葉との使い分けとして大変良い匙加減であろうと思います。

近年「ウェブ動画」という言葉によって「動画」という語彙がセルアニメから解き放たれた使われ方をしているのも、「動画」という日本語と「セルアニメ」という意味が乖離してニュアンスが消えてきた証拠であろうと私は考えています。つまり「動画」という言葉の意味は戦後セルアニメを意味していたところから、70年を経て変化し、いよいよ「動く画」という本来の意味に収まったと言えるのではと考えています。

一方でテレビの誕生時に使われ始め、生放送文化の中で「完パケ」というニュアンスを内包するに至った「映像」という言葉のニュアンスは今もって健在です。

言葉は時代と共にその姿や意味を変化させるものでしょう。今後この二つの言葉の意味がどう変遷するのか?興味が尽きないところです。

 

学識経験者の方々へ

久しぶりに映像のことを真面目に考えてみる気分になり、上記のような記事を書いてみました。映像業界にとって今一番必要なものは「学術としての目線」です。あまりに現場が忙しすぎて理論構築をしていく現場人がほとんど皆無に等しい状況になってしまっているのです。
例えば法的な観点から見た場合、今の映像業界は適法かというと疑問です。下請法と著作権法についての疑問点は以下のページにも記載しましたが、業界全体として「知識」が足りていないのです。現場のこうした状況に私自身も大いに危機感を感じます。
適法意識を高めるためには法の知識が必要です。そして映像業界全体の発展のためには映像制作そのものの理論構築が必要です。ところが私が若い頃のテレビ番組制作の現場では、理論を語れば「そんな難しい事言ってないで仕事しろ」という言葉しか返ってきませんでした。そういうインテリジェンスの軽視の姿勢が今のこの状態を生んでいるのではないかと思っています。
映像を作るという仕事は頭脳労働です。しかし頭脳労働に携わる人間がインテリジェンスを軽視するのは自殺行為としか言いようがありません。
ぜひ学識経験者の方々には、私たちと共に映像についての理論構築のための議論を活発に行っていただけたらと思っています。私たちは経験則からのお話ししかできませんが、それを体系化して論文として著作できるのは学識経験者の方々だけです。ぜひご協力を。

>>デキサオフィシャルページ「下請法について」

>>デキサオフィシャルページ「著作権法について」

>>奥山正次経歴

※1~この「演出」という言葉の定義も実はあまり正確な定義がなされていない。ここでは筆者は「作者の意図を反映するための操作手法」と解説しているが、さらに精度の高い説明があればご意見いただきたい。
※2~このように動画素材を時系列上に組み立てて意味を生み出すことを映像業界では「モンタージュ」と呼びます。一見意味が希薄な二つ以上のカットを時系列上に組み立てることによって、新たな意味や解釈の可能性が生まれることがあります。モンタージュの役割はまさにここにあります。編集という作業は、実はこのモンタージュの繰り返しと言っても過言ではありません。

>>映像制作の現場からTOP
>>映像制作TOP

メールでのお問合せロゴ

映像演出術の専門家が作るコンテンツの数々

映像作品の事例紹介

高度な演出技法を惜しみなく投入したデキサの映像作品群

弊社映像制作会社デキサは映像演出を専門とするディレクター職の代表が設立した映像制作プロダクションです。コーポレートアイデンティティ動画や、商品PRといったマーケティング動画、マニュアル動画まで、それぞれの用途に合わせた演出方針で的確な映像を制作いたします。
30年の経験に裏付けられた確かな演出で、貴社の動画コンテンツをレベルアップさせてみてはいかがでしょう。
以下のリンクのページにはほとんどのジャンルの映像制作の専門ページが紹介されています。皆さまのフィールドに合ったプランが必ずあると思います。ぜひお役立てください。

>>映像制作サービス紹介ページ