映像制作の現場からタイトル
2018/8/15公開

文句があるなら立候補すりゃいいだろうが!

さて、総裁選があわただしくなってきたようですね。私は政治には疎いです。疎いですが、子供がいるので、その子供にツケを払わせたくないという想いもあり、最低限度のことはしています。それはよく新聞とテレビを見て情報を集め、選挙にかならず行き、一票を大切に行使するということです。
民主主義というのは、つまるところ「集合体としての国民の自己責任」だと私は思っています。国が悪くなったら、それは国民が悪いからです。政治家を選ぶのは集合体としての国民ですからね。政治家のやることに文句があるなら、選挙に行って自分の考えに近い人に投票することです。自分の考えに近い人がいないなら、立候補すりゃいい。誰も止めません。学校で習いましたよね。
こんな当たり前のことを知らない人はいないはずですが、いるんですよね。文句を言ってばかりで立候補しない人たちが。誰でしょうかね?今回はそんな人たちの話です。

石破茂氏の本を読み返すと

最近、自民党の石破茂氏の書いた『国防』を読み返してみました。最近総裁選の話が報道でも多く、石破氏の名を聞く機会が多くなりましたので、ちょっと思い出して本棚から引っ張り出したというわけです。石破茂氏がこの本を出版したのはまだリーマンショックが起こる前の2005年です。石破茂氏といえば農水族がスタートですが、今は防衛関係のオーソリティとしての顔のほうが有名なのではと思います。そのオーソリティが書いた防衛の本ですから、プチ・ミリヲタである私は防衛庁長官という役職がどのようなものなのか?それを知りたいと思って出版されてすぐ、この本を買いました。
ところがこの本、本当に良い意味で期待を裏切ってくれる本で、『国防』という一見猛々しいタイトルからは想像できないほど冷静かつ狡猾な思考実験の繰り返しにも似た内容で、国際関係とはどういうものなのか?世界とは何なのか?という、外交の世界を垣間見せてくれます。

石破氏のマスコミへのジレンマ

さてこの本、本当に石破茂氏の冷静沈着な性格がにじみ出ている本でしたが、こうやってゆっくりと読み返してみると、ある部分だけ石破氏らしからぬ「感情的」とも取れる文脈があります。それが何かというと「マスコミ」を語る時の口調です。
私は今は企業広報映像や医学映像をメインに仕事をしていますが、かつてテレビ局の報道に関わっていた経験がありますし、映像制作という、いわば「情報」を扱う仕事をする以上、襟を正して石破氏の意見に耳を傾ける必要があるだろうと思っています。

誤解を恐れず言えば、石破氏に限らず政治家から見た場合、マスコミというのはある意味困った存在に感じることもあるのだと思います。少なくとも『国防』を読む限り、石破氏のおっしゃることは一理あります。国民の知る権利は確かに大切ですが、すべてはバランスです。メディアが何でもかんでも公表して誰かの命が危険にさらされるとしたら、それを公表することが果たして正しいのでしょうか?それが特に防衛に関わる情報であるならなおさらです。
メディアは何でもかんでも「スクープ!」として公表することが果たして公益になるかどうかは考えてほしい、そう石破氏はこの本でマスコミに対してではなく、国民に語りかけているのです。
わかりやすい事例が「イラク派遣における武器使用にかかる訓令」を新聞が記事にした一件です。どういう時に武器を使用して良いか?それを紙面に掲載して公にしてしまったわけです。石破氏は、こうした記事は「(日本の)手の内を見せてしまうので隊員の安全には繋がらない」と書いています。この意見には私も納得です。こうした記事は本当に掲載する意味があったのでしょうか?
誰かに手の内を見せてしまい、誰かが危険にさらされるような情報を何が何でも報道するのが正しいかというと、私は個人的には、そうではないだろうと思います。
これをメディアが「国民の知る権利」とおっしゃるのだとしたら、国民の一人として私は「そんな情報は開示してもらわなくて結構」と断言できます。

報道の自由は無条件ではない

博多駅テレビフィルム提出命令事件の判例では、報道のための取材の自由も「21条の精神に照らし、十分尊重するに値するもの」でなければならないという結論になっています。つまり、国民にとって役立つ情報かどうかを、メディアはまず最初に考えろということです。何でもかんでも「報道の自由」で片付くかというと、実はそうでもないということです。

どういう時に武器を使用できるか?これは自衛隊の方々にとっては何かあった際に自分を守るための情報ですから大切ですが、この情報が私のような一般の国民にとって意味があるでしょうか。取材の過程でこの武器使用にかかる訓令を目にしたとしても、それが自衛官の身を守るために合理的かつ適当と思われる内容であるなら(実際合理的かつ適当でした)、わざわざそれを公にする必然性がどこにあるのでしょうか。
この件は二段階で考えることが必要です。まず第一に、武器使用にかかる訓令の内容の報道が「公益」となるかどうか?これについては自衛官の身に危険が及ぶ可能性があるので、明らかに公益とはならないでしょう。
次に考えるべきなのが、この報道が「国民の知りたい・知るべき情報」かどうか?という点です。これも自衛官以外のほとんどの国民にとっては細かい情報は不要でしょうし興味もないでしょう。唯一知りたいところは「自衛官の皆さんが自身の身を守るための取り決めをしているかどうか」だけです。身を守るための取り決め無しで自衛官をイラクに行かせるのは国民として忍びないからです。
銃を使用できる条件まで国民が決めるということでしょうか?いったん派遣されると決まったら、護身のための条件くらいは隊員や関係者で節度のある範囲で決めてもらえればいいのでは?現地に行かない人が決めてもわからないですよ、そこまで外様が決めようなんて、逆に国民として傲慢ですし、無責任極まりない行為です。

要するに何が何でも報道する必要はないのです。バランスが大切だということです。自衛官を危険にさらしてまで何が何でも知りたい!そんなヒステリックな欲求は私にはありませんし多くの国民がそうでしょう。

「判断材料」を与えるのが報道の役割

「情報の取捨選択と重み付け」はメディアにかかわる人間の仕事の第一歩です。例えばテレビ。映像を編集する以上、何かを拾って何かを捨てる。どこかに焦点を絞り、そこに関係ない情報を捨てる。こういう作業の連続なのです。そこには「意図」があり、例え同じ情報を基にしていても、その意図次第でその報道は良心的にも悪質にもなりえるのです。
確かに「誰にとって良心的か?」という問題はありますが、これはもう「編集」や、もっと広い意味での「編成」が存在する以上、避けて通れないメディアの宿命のようなものです。だからこそメディアに関わる人は悩んでいるのです。何でもかんでも得た情報を公開するだけならプロは不要です。情報を上手に取捨選択し、有益な情報を広く伝える。難しいバランス感覚が求められ、情報を捨てる時、その捨てる理由をどう判断するか?など悩みながらその難しい判断をしているのです。本当に悩ましい部分はありますが、これがプロではありませんか?
少なくとも私がテレビを中心に活動していたディレクター時代は、そうやって情報を取捨選択していましたし、自分なりの節度を持っていた自負があります。

私は個人的には、政治に関する報道というのは「国民にとっての判断材料」となるかどうかが「有益かどうか」の判断基準で良いのではないかと思っています。つまるところ国民が自分の考えをまとめ、判断するための材料を提供するという働きがメディアにはあるという考えです。そう考えると、政治的な判断を国民に一度フィードバックして「判断を仰ぐ」という意味でもあり、また、その判断が世論として政治に対する圧力として働き、国会や政府が正常に機能するようにリバランスを促すということでもあると思います。
つまり「判断材料」となるかどうかは一つのカギです。判断材料となる報道は世論を高めるでしょうが、判断しようがない報道は役に立ちません。

例えば「自衛隊が海外に派遣されるべきかどうか?」は国民一人ひとりが自分の考えを持つべきですし、そのための判断材料は必要でしょう。しかし一度民主主義的な手段を経て派遣が決まったなら、隊員が身を守るための必要最低限度の手段は「どうあったって必要」「必須」なのですから、その「身を守ること」について、とやかく他人が言う必要はないし、そのためのルールはむしろ自衛隊員やその関係者が自分たちで決めることくらいは理解が得られるのではないか?ということです。つまり民主的に派遣が決まった後は、護身の手段まで世論形成を図る必要性は国民として感じないということです。
わざわざそんな護身のためのルールまで細かく報道して、「自分の身を守るためにテッポウ使うらしいよ!どう思うよ?」と言われても、国民の一人として私は、「そりゃそうだろうよ、オレだってテッポウ無かったら行きたくないよ」で終わりですし判断する立場にありません。だから判断材料にならないという意味で「有益とはいえない」という結論です(私個人の意見ですよ・笑)。
そこまで現地に行かない国民が決めないとならないですか?報道するということは、国民に「判断を仰ぐ」という意味が内包されているのです。その責任をわかっていますか?仮に国民が世論として「テッポウ持たないで派遣しろ」となったら、どうなんですか?国民の代表者たる政治家が派遣を決定したにも関わらず、護身のための手段を与えず派遣する。そんな無責任が本当に民主主義なのですか?もしそうなら、まるで戦艦大和を護衛戦闘機なしで沖縄に特攻させた旧帝国海軍のようですね。そういうことはしないと、日本という国は歴史的に反省し、生まれ変わったはずですが。

メディア:「隊員は身を守るために何か取り決めをしていますか?」
政府:「はい、しています。なので最低限度の安全を確保するための手段は残されています。」
メディア:「テッポウ使えるようになってますね?」
政府:「はい、テッポウは適正に使えるようにしてあります。」
メディア:「どういう時に使えるんですか?」
政府:「隊員の安全のために全部は言えませんが専守防衛を掲げる自衛隊ですから適切なテッポウ使用のルールを決めています。」

これで国民は「じゃあ大丈夫だな。護身する手立てはあるみたいだし…」となるのが正常な流れではないでしょうか。
これで納得できない人はよほど派遣に反対なのでしょうね。でも国民が選んだ国民を代表する国会議員たちが国会で話し合って派遣を認めたわけで、これってつまり元々民主的に決められたことですから、それに個人的意見として反対するのは良いとしても、否定はできないはずですよね。だって民主的に決めたのだから。

インターネットと既存メディア

ちょっと論点換えて話を進めますが、インターネットの普及以降、既存メディアはあえいでいるように感じます。何をしたらいいか、目的意識を見失っているようにも見受けられます。焦りがあるのではないかと感じています。しかし自信を持って本来のあるべき姿を模索してほしいと私は思っています。
インターネットは良い意味でも悪い意味でも「アマチュアメディア」です。そこにあるのは玉石混交の情報の羅列です。良いものもあれば悪いものもある。インターネットのまずいところは、担保が弱いため、情報の信頼性に乏しいという点です。この担保の弱さの原因を「匿名性」だと言う専門家がいますが、私はそうではないと思っています。要するに「消してしまえる」「訂正しやすい」という点が担保の弱さの原因になっていると私は思います。
プロの作る既存メディアというものは、消せません。訂正もできません。新聞や雑誌は一度印刷してばらまいてしまえば、消すことなど不可能です。放送も一度流してしまえば国民の数パーセントが見るのです。もう消すことなど不可能です。この覚悟がプロのメディアの信頼性を担保しているのです。
消したり、訂正したりできないからこそ、プロは命がけで信頼性の高い情報のみを精査して公表しようと努めるのです。これがインターネットとの大きな違いではないでしょうか?

情報を取捨選択するのがプロのメディア

消すことができないなら、何を公開すべきかは慎重になる必要があります。イラク派遣の意味や是非を考えるために必要な情報は当時の私も「まあ、よく知った上で『納得して反対する』か『納得して賛成するか』できたらいいな」と思っていました。ですから、それを判断するための情報は国民として知りたいと思いましたし、知るべきだと思っていました。
しかし、いったん派遣が決まってしまえば、自衛官の皆さんが自分を守るための基準がどうなっているかについては、キチンと決めているかどうか位は知りたいと思いましたが、その内容は知る必要があるかというと、「それを知っても、私がイラクに行くわけではないから役に立たない」というのが正直なところです。ですからこの訓令の内容を記事にした記者さんが、いったいどういう論理で「国民が知ることによって役に立つ」と思ったのか知りたいと思います。もっと言うならこの記事を公表することによって「何を国民に判断させたかったのか?」ということです。

何度も言いますが、取捨選択はどうしてもメディアの宿命でもあるのですから「正しく取捨選択」をするべきだと思いますし、それができていれば、何もアマチュアメディアに卑屈になり、自分のアイデンティティを疑う必要は全くないのです。自信を取り戻すことができれば、功を焦る必要もありませんし、国民の知る権利(というより「知って判断する権利」)に寄与する情報を正しく選別して報道するという本来のあるべき姿を見失うことも無いのです。
ここ10年ほど、政治家とメディアは仲が悪いように見えています。それは何でもかんでも「報道の自由」という御旗を振ってなりふり構わず伝えてしまう姿勢が一因ではないですか?判断しようがない材料まで報道しても、それは国民の利益になるのかどうか?ここ本当に大切で、すべてはバランスだと思うのです。最近ちょっとバランス感覚悪くないですか?

正確な知識もプロの条件

さて、またちょっと違った角度から考えましょう。
インターネットが普及した今だからこそ、既存のプロメディアは情報の信頼性という一点においてずば抜けた存在であるべきです。逆に言えばそれしかプロメディアが生き残る道はありません。まずは情報の信頼性を高めるという「当たり前の努力」から初めてほしいものです。
例えばワイドショー。なぜ政治の話を野球選手がしている映像に情報価値があるのでしょうか?学識経験者ならいざ知らず、だって野球選手ですよ。こと「政治経済」という分野のこととなれば私と何ら変わらない人の会話を聞いても井戸端会議にしか見えないのは私だけでしょうか?

百歩譲って「視聴者の共感を得るため」にあえてそういうコメンテーターを選んでいるとしたら、それは違うでしょう。「市井の国民の代弁者」は今、テレビに求められていませんよ。もしそんなことを考えてるテレビマンがいたとしたら、それは時代錯誤も甚だしいし、そんなの20年前に終わっていますよ。
インターネットというアマチュアメディアがありますから、市井の国民はすでに発言し意見する場を持っています。だからその役割をテレビなど情報のプロたるマスメディアがやろうなどと思わないほうがいい。すでにそういう時代ではありません。

以前、ロス疑惑という事件がメディアを賑わしていました。雑貨輸入会社の社長が奥さんを誰かに射殺させたのではないか?という疑惑だったのですが、この射殺に使われたのが「.22ロングライフル」というものでした。
ワイドショーを見ていたら、あるコメンテーターが「ロングライフルなんて大きなものを振り回して殺人なんて、すぐまわりの人にバレちゃうでしょう!」と言っていました。ちょっとミリタリーに詳しい人なら、.22ロングライフルという言葉が「ロングなライフル銃」の事ではないとわかるはずです。.22LR(ロングライフル)というのは拳銃の弾丸の種類のことです。そして「.22」とは「口径0.22インチ」の事で、およそ直径5ミリというホントに小さい弾丸です。小さいので威力はさほどではありませんが、それこそ手のひらに載ってしまうような小さい拳銃から発射することができますし、当たり所が悪ければ殺傷能力も十分にあります。つまり使い方によっては銃を持っていることに気づかれにくく、暗殺にはとても適したものなのです。
このワイドショーのコメンテーターは、.22LRのLRという部分を「ロングなライフル」と思っていたわけです。私はまだ子供でしたが、子供ながらに「このコメンテーター、イタい奴だなあ」と思ったものです。
一部分ではありますが、自分より知識が無い者がテレビに映って、したり顔で事件を語るその姿に、一種独特の違和感を感じた記憶があります。「一事が万事」という言葉もあります。ワイドショーのようなものには、こうした間違いはかなりあるのではないでしょうか?このようなことでは、情報の信頼性を担保できません。つまりアマチュアメディアに優位なポイントを失ってしまうのです。

小説家は小説についてだけ話すならプロだから情報は正確。野球選手は野球についてはプロだから信頼できる。しかしロスで起きた拳銃による殺人事件については、そういう軍事や捜査のプロからの意見を聞きたいですよね、小説家や野球選手の意見じゃなくてね。ワイドショーって、本質的にミスキャストですよ。改善策は無いでしょうかね。こういうことをやっていると、本当に馬鹿にされますよ。

恣意的な姿勢もメディアの品位を下げる

政府の記者会見の後の記者質問を見ると「よく菅官房長官は我慢しているよなあ」と感じることが多いです。記者は同じような質問を何度も何度も繰り返し、菅官房長官もそれに丁寧に同じ返答をする。しかも狙っているコメントがあり、その狙いのコメントが出てくるまで何度も同じ質問を繰り返す、まさに東ドイツの秘密警察、シュタージの尋問手法を見ているようです。何を官房長官に言わせたいのかは想像がつきますが、官房長官はバカではありません。言えないものは言えないのです。
何でもかんでも言わせようとする。言わないなら言うまで同じ質問をする。これでは政治家がかわいそうだし、同情するよりほかない。何より時間の無駄。菅官房長官の貴重な時間を各メディアの記者たちは奪うべきではないし、くだらない質問で菅官房長官の時間を奪うなら、それは「国益にならない」と断言できます。メディアがああいったバカな質問をしなければ、実際、菅官房長官はキッチリと仕事をしてくれる方だと私は思っています。

政治家がマスメディアに批判されるなら、マスメディアは誰に批判されるのでしょう?「政治家=立場の強い人」「マスコミ=立場の弱い人の味方」という単純な構図ではもう語れないでしょう。マスメディアの政治家いじめにしか見えません。学校で先生に反抗していきがっている子供と大差ないと思われたら終わり。プロのメディアとして成立しませんよ。
得たい情報を得るまで同じ質問を繰り返す。正直見苦しいレベルです。政府だって言えないものは言えないのです。国民はバカではありません。どっちの姿勢が正しいかくらい判断する目は持っている。こんなもの子供でもわかります。
今のメディアに足りないのは「視聴者(国民)を信じる心」です。視聴者がバカではないという事実を受け入れ、あまりに恣意的な姿勢は自分の立場を悪くするだけだと気が付くことです。そして一番大切なことは「正しい情報を正しく取捨選択して有益な情報を伝えること」です。

長くなりましたが、とにかくメディアはメディアの本分を全うしましょう。それが一番の生き残りへの道です。自信も取り戻せるはずです。大丈夫、正しいものは生き残ります。良いものは続きます。これが自然の摂理です。現役の方々に、外様のOBからのアドバイスと応援メッセージでした。

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