人車軌道での運搬から蒸気機関車での運搬まで
歴史を紐解き、徹底した姿勢でリサーチを行い、細やかなタッチで過去の歴史を映像化する。そんなCGの仕事を弊社デキサでは長年行ってきました。
今回はそんな案件の中でも比較的低コストで制作した大谷石の運搬軌道の解説CGをご紹介します。
人車軌道の時代
大谷石で有名な大谷は、石以外にも「宇都宮の奥座敷」と呼ばれ、風光明媚な地域として地元では知られていました。鯉料理の名店などもあったため、宇都宮の旦那衆に愛される地域だったのです。
そこで、産業としての大谷石の運搬と、観光開発としての観光客の運搬を担う人車軌道(人が荷車を押す鉄道軌道)が荒針~西原間に誕生しました。それが明治29年(1896年)3月19日に発足した宇都宮軌道運輸株式会社です。(後に材木町までこの人車軌道は延長されました)
設立者に名を連ねていたのは地元宇都宮の名士の方々だったところを見ると、石の運搬だけが目的ではなかったことが見受けられます。
この人車軌道で走っていたのは石を運ぶための貨車と、観光客を乗せるための客車の2種類でした。車夫は二名でこの人車を押していました。
ここにご紹介しているCG画像は、客車(最大定員6名)です。運賃は三銭から五銭くらいでした。饅頭一つが一銭の時代でしたので、安くはない料金でしたが、最盛期には1日300人もの利用客がいたということですから、この人車軌道の敷設は大成功と言える結果でした。
軽便鉄道の時代
明治39年(1906年)2月、宇都宮軌道運輸株式会社は、仁良塚~戸祭の間で運行していた野州人車鉄道を買収して新路線とし、それを機に社名を宇都宮石材軌道株式会社と改めました。
その後、人が押す人車では輸送量に問題が生じ、次の一手として軽便鉄道を敷設することとなりました。軽便鉄道とはいえ、線路幅は当時の鉄道院のものと同一規格とし、鉄道院の線路と直結することも可能なようになっていました。そのまま鉄道院の線路に乗り入れができたため、大谷から全国各地への駅に直結されることとなり、大谷石が日本全国規模で利用される時代を迎えます。
こちらにご紹介するCG画像は弊社が制作した日本車両製造/宇都宮石材軌道株式会社No.2機関車です。大正10年(1921年)6月、宇都宮石材軌道株式会社が日本車輌製造株式会社から購入した蒸気機関車です。C1軸配置のSLで、日本車輌製造の製造では現存最古のものと言われています。
この機関車は現在、東武宇都宮線おもちゃのまち駅前に保存展示されていますので、その写真を撮影し、その写真からこの三次元モデルを起こしています。
宇都宮石材軌道は1931年には東武鉄道に吸収され東武・大谷線となり、 こちらの機関車は1939年に鹿島参宮鉄道へ譲渡され、竜ヶ崎線へ配属されました。この時に当機関車は「5号」と名付けられたとのこと。その後1965年に鹿島参宮鉄道と常総筑波鉄道が合併して関東鉄道となり、この機関車も「関東鉄道5号蒸気機関車」と呼ばれるようになりました。
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◆参考情報◆弊社デキサの歴史CG制作サービス
弊社デキサでは数多くの歴史番組やウェブコンテンツに江戸時代や明治大正などの街の様子を可視化したCGを制作してまいりました。専門家の監修を受けながら制作し、在京キー局やドラマ制作会社の作品を陰で支えてきたデキサの歴史CG制作サービスをぜひご活用ください。